「家族を裏切るような気持ちで、心苦しいんですが、情報収集だけはしておこうと思いまして」我々の前に現れたTさんは、そんな風に前置きした上で転職活動をはじめた。そして、以前から興味を持っていたベンチャー系の電子機器メーカーA社一社に絞って応募を進めた彼は、企業ニーズともぴったり合い、設計課長のポジションで内定を獲得することが出来た。ただし、このA社、勤務地が神奈川方面である。当然、現在の住まいからは引っ越さねばならず、妻と子供のことが脳裏をよぎった彼は、「家族と相談しますので、話を受けるかどうか少し考えさせて下さい」と猶予期間を設けた。
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そして、内定が出た日の週末、我々の元にTさんから連絡が入った。「先日のA社ですが、やはり辞退します。これ以上家族に迷惑をかけられません。残念ですが……」Tさんの声からはありありと無念さが伝わってきたものの、我々からはそれ以上強く推すことはせずに、Tさんの判断を尊重することにした。すると、同じ日の夕方、Tさんの妻と名乗る女性から電話があった。「今朝ほど、主人がA社とかいう会社を辞退すると電話したと思うんですけど、話を進めてやってもらえないでしょうか?やはり生き生きと仕事をしている主人が好きですし、娘と私の二人で話し合った上での結論ですから……なにとぞ、よろしくお願いします」話を聞いてみると、A社の件でTさんは家族会議を催し、奥さんと子供とに事情を説明したそうだ。Tさんは「もう引越は嫌だよな……」と明るく笑い、忘れてくれ、と早々に話を打ち切ったそうだが、奥さんからみれば未練たらたらだったらしい。そこでTさんのいない時間を見計らって、奥さんが娘と話し合ったというのである。それから約三ヵ月。Tさんは憧れのA社で元気に活躍している。もちろん、家族もいっしょである。